香港で取材した[South China]の新聞記者は、池田一のことを「engineer-cum-artistが、水に特別な興味をもつ"green" activistになった」と書いた。(South China/Sunday Morning Post1999年2月28日号)
1961
大阪府立茨木高校を卒業し、京都大学工学部高分子化学科に入学。日本で最初に出来た学科の、第1期生となる。その秋に、劇団風波に入団し、演劇活動に取り組む。初舞台は、「西陣の歌」という社会主義リアリズムの舞台であった。

1962
60年安保闘争後の”仮眠の季節”といった時代。その中で、サルトルなどの存在論に影響を受け、実存主義的なものに傾斜していった。

1963
放射線重合で有名な岡村誠三研究室に在籍。演劇の方は、「台風」などの舞台装置が評判を呼び、美術監督として活動。昼は劇団でトンカチを、夜は研究室で試験管を、といった日々が多くなる。

1964
「焼けたトタン屋根の上の猫」の上演が中止になり、劇団を退団し、約3ヶ月間、大学院への受験勉強に取り組む。短期間の詰め込み勉強に「豚の残飯漁り」といった印象を抱くが、本人もビックリする好成績で合格。その秋、京都中の劇団から選抜した合同演劇に、美術監督として招聘され、「芸術と科学の両立」という夢が捨てられず、参加する。

1965
京都大学工学部高分子化学科大学院に入学し、本格的な研究生活に。学会での発表を控えると、泊まり込みの研究生活が続く。一方、合同演劇は頓挫するが、新しく設立した演劇企画「薔薇」の創立メンバーに。サミュエル・ベケットやイオネスコなどのアンチ・テアトロばかりを上演する劇団で、美術監督に。

1966
美術監督としては、イオネスコの「椅子」やベケットの「勝負の終り」の代表作となる大掛かりな装置を、次々に発表。
研究の方では、日本高分子学会で「β−プロピオラクトンの光重合」に関する研究を発表する。「
芸術と科学を両立させる」という路線を突き進む。

1967
修士論文を終え、博士過程に。その直後、劇団が経済基盤を求めて、静岡県富士市に移転することになる。教授からも選択を迫られるが、周囲の予想を裏切って(?)、大学での研究生活の道を諦める。富士市に移転した劇団はチリ紙工場を経営しながらの共同生活を始めたが、悪戦苦闘。「経済優先か、表現現場重視か」で内部分裂し、東京へ。

1968
東京に活動を移して約6ヶ月、美術と演劇を結合させた、マルチ・プレイ・グループ「円劇場」を創立。アンダーグランド全盛の中に、そのラジカルな解放感はアンダーグランドをも逸脱した越境的な活動として、異彩を放つ。

1969
マルチ・プレイNo.1
『仮象・殺人ゲーム』では、幾つかの自立した空間が相互作用し、場が沸騰し、観客も含めて街中へのパレードに発展する。
−さまざまなジャンルの人々による「アナーキーな関係体」(美術手帳1972.10 )、と評される。

1970

美術家の劇団ともいわれ、野外でのアート作品を製作。海面に200mのビニール風船を使って線を引く
『NON−HORIZONTAL LINE』を発表し、注目される。この頃から一貫して、価値の固定化を嫌い、「流動するアート Flow Workの重要性を主張し続ける。

1971
75人乗りの大型バスによる、
「東海道メガロポリス・バスシアター」を実現。乗り降り自由な「動く共同体」が東京−姫路間を45日かけて往復する。

1972
東京湾にある無人島・浮島で、岩肌に掘られた洞窟に宿泊して、野外劇
『KINGDOM』に取り組む。
−「この無人島から、東京の、そして日本の何を見返しえたのか?」(美術手帳1972.11 )

1973
「永久演劇への志向」という小文を、日本読書新聞(1973.4.30)に発表。「…インカ文明の遺跡がもつ表面積を、演劇の彼岸に奪おうと考えている…」と書く。益子で焼物をしていた村山美穂子と結婚。

1974
「卵生の演劇」を、雑誌等に発表。「誕生と終末の一大虚構を一瞬裡に垣間見せてくれる轟音と砂塵のドラマ」(BREATHTICNo.8)というイメージを、境界概念を平和的に消滅させるモデルとして提案する。2月、父・定吉が他界。8月、長女・麻子が誕生。

1976
3月、母・ハルが他界。看病生活の後、大阪の家の後継ぎとして、東京を離れるかどうかで悩む。この間、独り執筆活動に専念し、特に業界紙からの依頼で始めた「大人のための童話」づくりに打ち込む。

1977
大阪の吹田の実家を姉に譲り、東京に戻る。アートへの提案として、どの特権的なジャンルにも属さない、制度の枠組みを超えた「営為としての芸術」を唱え、『PASS』宣言を行い、テキストを発表。11月、長男・喬が誕生。

1978
公演活動中心の演劇活動に強い疑問を抱く。アフリカの部族の世紀末的な生を描いた『イク族』を、日本の状況と照らし合わせ、即興的な劇づくりに取り組むが、上演直前に中止。集団による幻想空間の構築という作業から、更に遠のく。

1979
自立した表現者たちの共同作業を前提に、ワークショップを再開。アートシアター新宿で上演した
『テイグ氏の記念日』の案内状に同封した手紙の中に、「…それ(ここ一、二年間)は、暗鬱たる時代を制圧してきた『制度としての芸術』から、根源的な芸術の回復を目指した『営為としての芸術』への、踏み出しであった……」、と書く。

1980
円劇場としての通算13本目の新作となる『熱夜』を上演。北陸、東海地方に巡演に出るが、その旅程で、演出という制度にますます懐疑的に。操作/演出/加工などといった、人や自然に対する表現作法から、アーテイストはどこまで自由に解放されるか---

1981
演出家廃業宣言。自らの、その時の位置について。「言葉も通常の表現手段も蒸発してコミュニケーションの役に立たない。アジアの何処かの、人で溢れ、土埃りが沸き立ち、人が容易に土に帰っていってもいい路傍」で、展開したボイス・パフォーマンス
『WORDLESS SOUND』が、表現の転機となる。

1982
「第一義な表現」の重要性を唱え、プライベートマガジン[P.M.1]を発行。「全ゆる表現ジャンルを踏みしだき放つ<余りに個有であるが故に余りに普遍な>マガジン、と主張する。

1983
パフォーマンス・ワークショップ「G-day PLAN」を、新宿アートセンターを拠点にして、開設。さまざまな表現ジャンルに分岐する以前の、日々の営為を表現として凝縮する行為を、第一義なプライマリー・パフォーマンス(Primary Performance)と定義。メンバーたちと、実験的にさまざまな可能性を探究し、発表する。

1984
多摩川全域を使って行うプロジェクト「RIVER PLAN」を開始。水面をピアノの鍵盤に見立てた『WATER PIANO』を、ソロ・パフォーマンスとして発表。代表的なパフォーマンスとなる。
その一連の活動をまとめたアート・マガジン
[P.M.2]を発行する。その中で、近代の物質文明が加速させた「物の氾濫」に警告を発し、「もの以後の文化=ポスト・オブジェ・カルチュア」を提案する。
     
1985

右足の大褪骨脛部骨折で、2カ月半の入院。退院後、杖をついてのパフォーマンス、
『WAVING ROAD』を発表する。
−「…池田の楽天と悲観の間のダイナミックな転移……」という批評(長尾一雄/『邦楽の友』)。
桧枝岐パフォーマンス・フェスティバルで、川の中洲に掘った十字型の青い水の中に、身体を没し、「地球のへそ」から発信するパフォーマンスを発表。
−「…池田自身が水に出会う場は、自らの存在が水との関係によって露わになり、それは水が一滴の雨から川になり海になり雲になる循環のイメージに身をゆだねることにほかならない。」(美術手帳1986.5)

1986
ギャラリーなつか/東京の個展で、
『WATER−PLANE』シリーズを開始。水と関わる作品が多くなる。
−「…池田のアクションは、水から生命へ、赤子から超人へ、そして人類の創生からその終末への目のくらむような長時間を、数十分間に早回しして見せているかのようである」(粉川哲夫/共同通信発1986.4)

1987
ソウルでの芸術交流プログラムで、ソウルの土と水を使った『ACTION−TEXTILE(行為の織物)』を発表する。韓国との間の芸術交流プログラムを実践する契機となる。パフォーマンスの翌日、再び骨折箇所を痛め、長い間松葉杖をついた活動を余儀なくさせられる。
横浜市と港北区からのアートイベントの依頼要請に応えて、大倉山記念館の前庭に設置した『水鏡』は、代表作のひとつとして、その後各地での設置の発端となる。
−「…<水鏡>は、われわれ人間と母なる水とをつなぐ、「柔らかい装置」なのである」(村田真/アーティスト・ブック「水鏡」1988)
ニューヨークのパフォーマンス・スペースの老舗であるフランクリン・ファーネスから、「100余名の応募者の中から選んだ10人のパフォーマンス企画の中に、あなたを選抜した」という通知を受取る。

1988
Asian Cultural Councilから、フェローシップ・グラントを授与される。
カナダのモントリオール、オタワでパフォーマンス。ニューヨークへ向かう途中、ナイアガラ滝から噴出する水煙、その先に広がる雲、そして局所的な雨という循環のパネラマの風景を一望したことが、「With the Water as a Planetary Network」のイメージを生む。ニューヨークのフランクリン・ファーネスでは、ハドソン川とイースト川の水を使った
『ニューヨーク水鏡』プロジェクトを発表。

1989
[Seoul-Tokyo-New York] Art Projectを発足させ、韓国との共同プロジェクトを開始。「東方からの提案」をテーマに、ソウルで[Eight Individuals From East]展を、韓国のアーティストと共催する。
その時発表した
『EARTH DRAWING』は、漢江の河原に45日間埋めてあった100枚のキャンバスに、雨水と土壌の作用で記された「地球の出来事」を読むという作品で、今までの全てのパフォーマンスの常識を打ち破った、と評価される。
−「……この作業は、東京とニューヨークを連結する、いわば地球の表面と裏面を同時に包括するという、とてつもなく広大な構想……」(金永材/『美術世界』1989.9、ソウル)。

1990
[Seoul-Tokyo-New York] Art Projectの東京プログラム
[Rejuvenation From The EAST]を開催。この日本と韓国の8人のアーティストによる展覧会では、水槽の中の沸き立つ湯気で [INDIVIDUAL]/[NATION]/[EARTH]の3冊の本を書く作品を製作する。
−「…自然のプロセスがキャンバス上に染み痕跡化していく状況を創ることで、池田は自然から『テキスト』を引き出す…」(Derek Jones/Asahi Evening News 1990.4.13)

1991
ニューヨークのダンス・カンパニー[Kei Takei's Moving Earth]の24時間パフォーマンスの全米ツアーの、環境デザインを担当。フロリダの河畔の泥地で“200枚の布を泥染め”し、
『EARTH−LINE』を制作。ミネアポリスのWalker Art Centerでの24時間パフォーマンスで、「もうひとつの道」として提示する。
−「…多くのアーティストが素材を支配し操作するのに躍起となっているのに、池田は反対のものを探求している。その結果、水の流動性や自然の不確実性を重んじる…」 (John Wirt/Sunday News Journal,1999.3, フロリダ)
21回サンパウロ・ビエンナーレに特別招待され、メイン・ステージに22m×10mの作品
『Floating Earth/漂う地球』を設置する。
ー「…水に反射する光が空間に生み出した虚像としての彫刻は、常に存在し、また常に変わり、まさに私がいつも芸術にたとえる反逆的な大きな鳥そのものである。」(Joao Candido Galvao/ゼネラルキュレーター、21回サンパウロ・ビエンナーレ )

1992
[Seoul-Tokyo-New York] Art Projectの1992年のプログラムとして、ソウルでのアート・フォーラム、東京でのシンポジウム「アートと行為のネットワーク計画書」を開催。「『それぞれの、あからさまな地球』に、今、自由な精神は耳を傾けている」と、語りかける。

1993
『水の本』『大地の本』プロジェクトを開始する。奈良・天川村では、天の川の合流点に12の水からなる「水マンダラ」を造り、そこから12冊の「水の本」を生んだ。開発が進む千葉ニュータウンでは、大地を鉄枠で囲んだ「大地の本」で、大地の歳時記をクローズアップした。「アートを、完了形のオブジェではなく、エネルギーと考え、作品はエネルギーの変換機構ととらえる」と、語る。
--「--多分、他のどのアーティストよりも、池田一は水を表現媒体として使用し、この制御出来ない物質で、全く新しい言語を創造している」(ドミニク・マゾー Diminique Mazeaud )

1994
「アジアに固有な/アジアから地球的な」視点で活動するエッジなアーティストたちとのネットワーク、「アジア・エッジ」の基盤づくりのために、アジア各地を回る。バンコクでは、「日本の現代芸術運動」展の中で、野外作品『ウオーターヘンジ(環状水柱群)』No.1を製作。西欧的なストーンヘンジに象徴される「fixed relaton 固い構造」に対して、それぞれが自立しながら相互に連関する「relaxed relation 柔軟な関係」の重要性を表現した。

1995
1995国連50周年記念アートカレンダー[The Message: We the peoples...]を創る「世界の12人のアーティスト」の一人に選ばれる。12月のページを構成し、より身近なテーマとして『The United Waters』の重要性を訴える。
米サンタフェ現代センターでの「エコ・アクティビズムのための共働戦略」をテーマとする国際共同プロジェクトで、その[The United Waters]を野外のパーマネント・インスタレーションとして製作した。

1996
国際アートフォーラム
『アジア・エッジ1996/東京』を開催する。展覧会、シンポジウム等を通じて、「WATERHENGE」の力学、「それぞれの自立したムーブメントが、いかに連携するか?」を問う。このエネルギーが原動力となって、アジアでの共同的なプロジェクトが幾つか派生した。そのひとつとして、タイのアーティスト、カモン・パオサワットとの共働作業として、3ヶ月間に亘る多摩川プロジェクトを実現。河口と源流の間を往復する旅を描いたビデオ作品[WATERMAN]を発表する。

1997
東シナ海、琉球列島を間に挟んで、北と南に位置する加世田(鹿児島)と台北(台湾)で、同時にプロジェクトを展開。琉球列島を含む全域を、円弧状の(Arcing)水の方舟(Ark)に見立て、加世田と台北で船首を製作する、
『Arcing Ark 水之方舟計画』をスタートさせた。

1998
「未来の水を思考し、生成し、交易する」をキャッチフレーズとして、初めての
『水市場』を開設する。合流点や用水路に「水取小屋」を、家畜市場を「水市場」に、そして古い石蔵を「水蔵」に変容させ、展覧会期間中、加世田市内に「未来のための水の流れ」を創り出す。
--[--誰もいなくなった「水市場」に立つ。水主たちもいない。不在のイスが40脚並ぶだけだ。陽が落ちて、周囲から闇が迫ってくる。裸電球の赤い光が、物悲しく、また楽しげに、風に揺れる。池田一の作品には多く接してきたが、間違いなく、このインスタレーションは最高の作品のひとつになるだろう--」(芹沢高志/ Speak Out! on Net)

1999
ヴィクトリア湾のそばに
『香港水市場』を開設、清水湾に向かう香港科技大学での"Big Arrow"、マニラ湾のヨットハーバーに対抗した『Water Ark Harbor』。アジア各地で、現実の水域と「IKEDA WATER」が大接近する。各地で、「現代アートとか、アートの未来といったものには興味がない。未来のためのアートについてのみ語りたい」と主張する。帰国後取り組んだ、万之瀬川流域の1市3町が連携した『水駅伝プロジェクト』は、各地域の町おこし団体、行政、環境団体らが製作を担当。「未来のためのアート」の力学が加速した。

2000
1997から1999の3年間で、アジア各地で展開してきたビッグプロジェクト『Arcing Ark 水之方舟計画』を、出版物として発行。それが契機となり、懸案であった沖縄での活動が始まる。池田一の沖縄での活動を支援、協力する「水の沖縄プロジェクト」が沖縄県立芸術大学を中心として発足。10月のバンコック・プロジェクト『BigHands Conference』には、沖縄のメンバーも訪タイするなど、アジアの水のネットワークが広がった。

2001
沖縄での「Okinawa WaterArt Channel」が本格的に始動する。前島アートセンタ−では、ギャラリーだけでなく、以前結婚式場であったビルの、廃墟となった中華料理店の厨房でも、展覧会とワークショップを行う。「水の沖縄プロジェクト」の主催で開催された沖縄県立芸術大学の展覧会では、沖縄の「不可視な水」をテーマに、『Okinawa Water Channel』を発表する。
秋には、台湾の高雄市主催の「高雄国際コンテナアートフェスティバル」に招待され、40フィートのコンテナと放置モータバイクを組み合わせた『水之幸福大移動』を発表。アートと現実社会との強い接点を浮きぼりにした。

2002
Bird's-Eye View鳥瞰図に対して、WaterArtを通して現実を見る「Water's-Eye View水瞰図」を提案。日本でもっとも古い多目的ダムをもつ相模湖では、「水源の声」をテーマに、2カ年プロジェクトを開始。住民へのインタビューから、『水の家-最初の晩餐』展を実現。インドネシアのジョグジャカルタでは、アートセンタ−の中庭にある実際の井戸を使用して、『Water's-Eye』を発表。台北の大湖公園での「台北公共藝術節2002」では、地域の住民に「池田一新聞/水藝術時報」を配付し、湖上に設置した『Water Senders Community 水之家』への参加を促進。WaterArtを通じて、「アートと環境とコミュニティー」の関係がますます際立ってきた。

2003
水源の地/相 模湖プロジェクトの2年目は、『水の村-標準時計』プロジェクト。渓谷沿いにある空家を「水の家」に変貌させる試み、「水と暮らす知恵」の募集、寓話づくりなど, 「水の村構想」に取り組む。相模湖交流センタ−での展覧会では、そのモデルイメージを具体化した。
3月、関西(京都/滋賀/大阪)で開催された第3回世界水フォーラムでは、『80リットルの水箱』プロジェクトを実現し、世界各地からの参加者に「生存のための基本権利としての水」を提唱。世界水フォーラムの関連で、日英アートフォーラムCrossoversやニューヨークでの"Water Water"に参加するなど、『80リットルの水箱』を広域に展開した。

2004
「地球上のあらゆる場所が、未来のために水を送り届ける起点」になりえるという信念を具現化。さまざまな空間を1千人分が一日に必要な水の量を溜めることが出来る『80,000リットルの水箱』に変容させるプロジェクトを、埼玉県の川口市で開始した。ビール工場の倉庫、鋳物工場、リサイクルセンターなどの使わなくなった空間を使って、80,000リットルの水が溜まる水位を提示した。環境とアートの関係を探る「Between Eco & Ego」展に招聘され、元鋳物工場であったKAWAGUCHI ART FACTORYを使用して、未来の水を創る『川口水工場』、そして『80,000リットルの水箱』が展示空間を抜け出し移動するプロジェクトへと発展させた。

2005
川口市内を流れる旧芝川5.8kmは、両端の水門が閉じた閉鎖河川。その半ばドブ川化した河川を再生させるための、アートプロジェクトを立ち上げる。旧芝川の実態を認識し、市民との共働のパートナーシップを広げるために、巡回展『Water's-Eye』を川口市内各所で実現した。世界各地で活動する環境アーティストやグループを結集した「GROUNDWORKS」展/セミナー(カーネギーメロン大学、ピッツバーグ)では、招待作家のひとりとして、1999年の『万之瀬川アートプロジェクト/水駅伝』と、芝川再生<水箱>アートプロジェクトを紹介した。この「GROUNDWORKS」は、環境アートの今後の可能性を開拓し、ネットワークする、今まで例のない重要なステップとなった。

2006
家の壁にいまも生々しい弾痕が残るサラエボの、雪景色。「サラエボ・ウインター2006」に参加し、The United Nationsならぬ『The United Waters』なる作品を発表。国単位ではなく、人単位の連帯を訴えて、展覧会場だけでなく、野外でのアートプロジェクトへと発展させた。5月、ニューヨーク州の西、Finger Lakesにある南セネカ中央学校から招かれ、展示と講演を行ったことも、今までにはない貴重な体験であった。Water Symposiumを学校で開くために、中学生がインターネットで検索し、最終的に池田一を選んだという経緯からして、エキサイティングである。「未来のためのアート」を主唱する共感者が、子供たちであるという事実は未来への明るい道と言えるだろう。

2007
いくつかの巡回展からの招待出品が、相次いだ。平和のあり方を問う世界巡回展「The Missing Peace: Artisits consider Dalai Lama」は、ロサンジェルスを皮切りに、アメリカ国内を回り、東京、マドリードなど、数年掛けて世界10都市を巡回する。世界環境デイ展「Envisioning Change」は、2007のホスト国ノルウエーのオスロから始まり、ブリュッセル、モナコ、シカゴへと。国内では、日本のパブリック・アートの50年の歴史を展示する「空間に生きる-日本のパブリックアート」展が、札幌から、東京、福井へと。環境アーティスト、パブリック・アーティスト、パフォーマンス・アーティストなどと、池田一の中のさまざまな顔が引き上げられていく感じだ。
昨年から、鹿児島でのアートプロジェクトが復活した。万之瀬川アートプロジェクト1999から、7年が経って、NPO法人エコ・リンク・アソシエーションを主宰する下津公一郎から、再び環境問題をアートの視点で取り組みたいと、話があった。今度は、更に南の、枕崎を流れる花渡川での展開だ。そして、2年目の今年は、竹で100メートルの筏を造り、川を下る、『100mの水筏が南方に向かう日』。さまざまな職業の人、学生たちが、共働するアートの展開は、未来のためのアートを志向する重要な起動力である。

2008
ニューヨークの国連本部でのセミナーと展覧会に、世界から選ばれた7人のアーティストのひとりとして、参加。「Unlearning Intolerance」のセミナーでは、環境とアートを結ぶ、これからのパースペクティブとして、「Water's-Eye View 水瞰図法」について、スピーチを行った。国連環境計画が、国連の最優先課題である環境問題への取り組みに、アーティストをパートナーシップとして組み込んだ、画期的な出来事だった。その席上で、インドの首都デリーの深刻な水問題にも触れた。デリーの各所で開催される国際パブリック環境アート展「48℃ Public. Art. Ecology.」に選抜された出品アーティストとして、世界的なレベルでの関心を呼び掛けた。水源であるヤムナ川は、「川はトイレットだ」と揶揄される実態調査から始まったプロジェクトは、『WATERPOLIS: missing or promising ?」。

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